保育内容からみた「その」の歴史

2010 年 3 月 11 日
保育内容からみた「その」の歴史     理事長 能 登 眞 作
■いま「その」の存在は
少子化が進んで、幼稚園から大学まで「子ども集め」が経営の重大課題になっているとき「その」は逆に入園希望者が増えて安定してきた。
自然の中で友だちとぶつかり合って遊び、ひとを愛し愛されて生きる力の基礎を培うという保育方針と、泥まみれの保育実践が改めて評価され、地域社会に受け入れられてきたのではなかろうか。
高度成長、バブルの時代に早期教育の風潮が日本中を風靡したが、「その」はそれに動じなかった。時代がかわると、ゆとりの教育などと言って子どもの成長・発達を信じない国の方針にも惑わされなかった。
「遊びをせんとや生まれけむ」と遊びながら成長する子どもの姿に感動した古代歌謡集「梁塵秘抄」の心を忘れなかった。遊びが滅び、遊ぶ子ども集団が滅んでいく時代を、「その」は遊びの復活に心を砕いた。それがこんにちの「その」を育てた。
ここまで「その」が成長できた原動力は三つある(と私は思っている)。
第一は、最初の「設立趣意書」に「小学校の予備校的な教育はしない」と明記し、幼児期に必要な体験を重視した教育・保育の理念を守り通してきたことにある。
第二は、絶えざる研修と民主的な話し合いによって保育計画を豊かにし、一人ひとりの子どもの思いに寄り添って実践できる保育者集団を育ててきたことである。
そして第三は、保育の取り組みを暖かく見守り、職員と共同して「その」の保育と経営を支える父母たる生協組合員の存在が力になったことである。
ローマは一日にして成らず…「その」の歩んだ道も平坦ではなかった。いま、その来し方を振り返るのも意味のあることではなかろうか。
■はじめの一歩
新しい保育施設を自分たちの手で立ち上げようと、親たちが集まったのは昭和三九年(一九六四年)の七月のことだった。九月二三日、霞ヶ丘団地集会所で「保育生協」の設立総会が開かれ、一一月末には稲の切り株が残る田んぼで起工式が行われた。やがて広々とした田園地帯に六角形の真白い園舎がが完成したとき、出資した親たちは「奇跡だ」と喜んだ。
一年足らずの準備期間にどんなドラマがあったか、どんな困難が私たちを見舞ったか、それは後日に譲る。ここでは開園した後、保育内容を確立する上での困難と、それを乗り越えてきた私たちのもうひとつの奇跡について語りたい。
昭和四〇年(一九六五年)四月一〇日、年中組二クラス七二名、年少組二クラス五〇名で「その」は開園した。先生が四人、助手が一人だった。
小人数でもかき集めの先生が一つの園を運営するというのは大変なことだ。朝の集まりをやるにも「私の園ではこうだった」と誰かが言えば、別の人は「私たちは…」と別の経験を言う。一事が万事だから、年配の主任の先生がこうと決めて指図する形になる。
保育計画にしても年中組と年少組の二枚を主任が自宅で書いてきて「こんなものでどうでしょう」と言って出されれば意見を言うのも難しい。
放課後、お茶を飲んで、今日の子どもたちの様子を談笑する。若い先生はその中で得るものが大きい。でも、主任にとってはムダなおしゃべりだ。「さあ、お茶がすんだら装飾の続きをやりましょう」。真新しいガラス窓にセロファン紙で飾る。主任の手は魔法のように動いて美しい花や草が輝く。先生たちは黙々と働く助手に過ぎない。
あるとき若い先生が言った。「わたし、飾るんなら子どもと一緒にやってみたいんですけど…」。主任はそれには答えず、「私が先生になったばかりは誰も教えてくれませんでしたよ。夕方、みんな帰った後、くずかごの中の失敗作を広げて、作り方を覚えたもんです」。
あるときは保育計画について話し合っていた。一番若い細田先生が「私は、幼稚園教育要領が六領域に分けているのは納得がいかなくて…」と言いかけると、主任はイスをバタンと倒して立ち上がり、鞄を持ってさっさと帰ってしまった。細田先生は涙ぐみ、他の先生はため息をついて帰り仕度をする。…翌日、主任に訳を聞いてみると「ああいう屁理屈が出たら、誰か席を立たなければ終わりませんよ」という。
■麦笛荘の若者たち
開園二年目、園舎を増築して九クラス三百人を超えた。若い先生たちが増えた。後に主任になった斉藤先生、山田(永井)先生、助手の美津子先生も夜学を終えて先生になった。若い先生たちは、大原の住宅の二階を借りて「麦笛荘」と名づけ、共同生活を始めた。「その」の薄給では一人では生活できなかった。
当番で炊事をする。貧しくても食事は楽しい。今日あったこと、感じたこと、何でも話し合えた。二年目の細田先生と美津子先生が若者たちのリーダーだった。職員会議では話せないことも、ここでは話し合えた。いや、むしろこれが実質的な職員会議でさえあった。
この頃のことを後年、美津子先生は「そのだより」に次のように書いている。
「カリキュラムもない。保育方針もない。去年はとか、前はこうしたとかいうものが何もない。あちこちから集まった先生たちで、ともかく保育を始めなければならなかった。保母一人ひとりがどんな保育をしてもよいという自由があり、その自由は、不安な見通しのない自由であった。…
しばらくすると、きちんと行儀のよい保育の好きな先生と、泥んこになって友だちと遊ばせることを主張する先生の対立が始まった。私はどちらともわからないほど無知であった。一生懸命勉強して、子どもにぶつかっていった。子どもたちは私の良き先生であった。夏休みには1ヵ月中、あちこちの研究会に参加した。夜遅くまで仲間と話し合った。
目の前のベールが一枚一枚はがれていくようであった。うれしくて夢中だった。子どもがだんだん見えてくる。一人ひとり顔もちがう。心もちがう。
そうしているうちに自分の考えがはっきりしてきた。子どもたちが泥んこになって遊ぶということが、どんなに大切かということがわかってきた。」……
■親たちの混迷の中から
先生たちの中に保育のありようをめぐって対立がくすぶっているとき、親たちも混迷を深めていた。親たちは「いい保育」を求めて「その」を作ったのであるが、「いい保育」ということのイメージは人それぞれであった。それを父母と先生の交流、協力の中で大きな合意に高めていくのが、本来「その」の果たすべき役割なのだろう。しかし、先生たちに共通の理念や目標がなく、気持の上でもバラバラな状態では、それは父母に投影され、父母もまた団結を失いかけていた。
人口急増で幼稚園が不足し、定員を無視した詰め込みとお利口さんをしつける保育が普通になっていた街の幼稚園の在り方に反発して「その」が生まれたはずだった。
しかし、子どもたちを自由に遊ばせ、友だちとぶつかり合って保育しようとする若い先生たちが増えると、親たちの中から「幼稚園的な教育の良さが軽視されている」と批判の声が上がった。経営の苦しさ、赤字の累積もあって、創業間もない「その」は混迷と対立が深まるばかりだった。
先生はバラバラ、親は勝手な文句ばっかりという状況から、どうやって抜け出せばいいのか。私は、創業者でもある親たちの意見はしばらく棚上げして、まずは創立趣意書の理念を保育に活かせる先生たちのまとまりを作ることに力を注ぐことにした。
最初の卒園生を送り出した三年目、それまで保育の中心にいた主任が退職した後、保育計画の自主編成に乗り出したのがそれである。しかし、「若い先生を重んじ、父母を軽んじている」と反発して、たもとを分かった役員がいる。一方、暖かく若い職員を見守ってくれた理事もいた。もう故人となった笠木忠夫さん、磯山昌枝さん、今も元気な吉川道子さんたちの顔が目に浮かぶ。
■保育計画のはじめの一歩
カリキュラムづくりの最初は、今年度の保育目標を「どんな子どもに育てるのか」という角度から、みんなで出し合った。
「偏食をなくする、というのを入れて。せっかく給食をしているのに、好き嫌いが多すぎると思わない? わがままを直すためにも入れて」と、一人が神経質に言った。
目標を「こころの問題」と「からだの問題」に分けて、みんなが思いつくことを記録していく。思いつきだから、理想の子ども像というにはお粗末だった。「よくできたじゃない?」と満足そうな先生もいる。
大事なことはこの文章の完璧さではなく、自分たちで考え、自分たちでまとめた点にある。その意味でこの「目標」は生きていた。どんなに内容が不十分であっても、一人ひとりの実践の目安になるのはもちろん、みんなで話し合うときの共通の物差しとして役立つだろう。そしてそれを作ったことで、先生たちは主体的に保育する集団へ、新しい一歩をしるしたのだった。
それから丸三年、「その」は最初のカリキュラム作りに心血を注ぐ。
■保育計画か教材研究か
創業三年目、私たちは本格的に保育計画づくりに着手した。今日の保育が明日にどうつながるのか、見通しをもった仕事がしたかった。
東京から講師を招いて保育計画の研究会を開いた。四月の保育案を大きな模造紙に書いて壁に貼った。「ほほう。ここの園は入園式をやるんですか」と、東京の先生は妙なことを言い出した。「なんのためにやるのか、説明して下さい」
「入園式ですか…」みんな戸惑っていると、「では、理事長に聞こう」
「そりゃ入園式くらい、やってくれないと困りますよ。どこだってやってることだから」
「世間がやるからやるわけ? そんな教育ってあるかなあ。目的がはっきりしないなら、入園式なんてやめた方がいい。僕たちが目的と言うのは、子どもをどう変えるか、どう高めるかということだ。儀式としてやるにしても、そこに子どもがいるからには教育活動だろう。どんなねらいをもって入園式をやるのか、それひとつで園のレベルがわかるね」
むろん「その」も無目的に入園式をやったのではない。ただそれを言葉で簡潔に表現できないのは、私たちが論議して目的や目標を確認しあっておらず、お互いにあいまいな認識でいたからである。そして、このあいまいさが私たちのレベルでもあった。
月一回、東京の先生との研究会を続けて、これから夏休みというときにみんなで話し合った。意外なことに若い先生たちから、保育計画もいいけれど、いますぐ役に立つ教材研究などがしたい、という意見が続出した。系統的な保育とか、見通しをもった保育とか言う前に、いま何をすればいいか知りたいと、その声は切実なものがあった。保育計画づくりに熱中していただけに胸にこたえた。
しかし、保育計画づくりをやめるわけにはいかなかった。目前のひとつひとつを明らかにしたとしても、やがて必ず何のために、何をめざして保育するのかという大きな悩みに直面するだろう。若い先生たちは気づいていないが、何のために、何をめざして保育するのかという大きな理念で一致しないかぎり、具体的な実践の話し合いも深まってはいかない。
■四万温泉の合宿で得たもの
夏休みが来て、幹部職員と保育計画の骨格をつくろうと四万温泉に合宿した。「保育の友」や「月刊カリキュラム」といったいくつかの保育雑誌を分析することから始めた。4月号から順番に「自然の12カ月」「音楽リズムの12カ月」といった一覧表をつくった。それぞれの領域で4月から5月へ、5月から6月へと、どんな積み重ねが用意されているのだろうか。
「へんだわね。これ…」
一覧表には何の系統性も認められなかった。春は花、夏は水と季節によりかかって、子どもの発達ということは二の次になっていた。内容がてんこ盛りでとてもやりきれないのも目立った。
文は具体性にない美辞麗句が多い。たとえば月刊カリキュラム誌の五歳児一月の「絵画製作」を見ると、「お正月の経験などから、とらわれのない意欲的な表現をさせる」とある。「とらわれのない表現」というのは、見たまま感じたままに伸びやかに表現するといった意味だろうか。だとすれば、それはいつも大事にしなければならないことで、正月の絵に限ったことではない。年長組一月の発達に見合った課題と言うわけではないのだ。
言葉は認識である。言葉は思想だ。ひとを教育しようというとき、意味もない修飾はどういうものだろうか。
合宿の最初の収穫は既成の保育案に頼るのでなく、自分たちの保育は自分たちで考えるしかないということだった。
■保育の流れを台本にする
参考に持参した中に座間市のある幼稚園の保育計画があった。芸術教育を主軸にするというこの園は、保育内容を生活指導、演劇、美術、音楽の四領域を設定していた。
私たちが注目したのは絵本「ひとまねこざる」を台本に、この絵本に出てくる言葉を単元に、年間の保育をひとつのドラマとして捉えようという発想である。たとえば三歳児の四月は「だいじょうぶ、でていく、そと、おむかえにきます」など、子どもの生活に関係深いものや教育目標に関係づけたい単語や短文を選んで各週のテーマとして配列している。
面白いが、絵本の限られた言葉に縛られて、こじ
つけの、おとなの言葉あそびの感もあるが、保育計画をひとつの「台本」として捉える着想に心を惹かれた。合宿の後半は、保育計画の台本づくりに集中した。できれば三歳児から五歳児までの三年間をひとつの大河ドラマとして描きたかった。
まず年少組一学期のねらい―「新しい集団生活に慣れさせる」と誰かが言って、「年少の新学期は集団生活と言える?」
「うん。集団と言うと、もっと組織的な人間関係を連想するものね」
「それに慣れさせる…保育者から言えば慣れさせるでも、子どもたちにすれば慣れるだし…どっちから見るの?」
「慣れるのか、なじむのか。鈍感に慣れっこになるイメージではなくて、主体的に新しい環境を受け入れるという意味では、なじむの方がぴったりする」
議論を重ねて、三年間の期のねらいが定まった。

理事長 能 登 眞 作

■いま「その」の存在はhiyoko 

 少子化が進んで、幼稚園から大学まで「子ども集め」が経営の重大課題になっているとき「その」は逆に入園希望者が増えて安定してきた。
 自然の中で友だちとぶつかり合って遊び、ひとを愛し愛されて生きる力の基礎を培うという保育方針と、泥まみれの保育実践が改めて評価され、地域社会に受け入れられてきたのではなかろうか。高度成長、バブルの時代に早期教育の風潮が日本中を風靡したが、「その」はそれに動じなかった。時代がかわると、ゆとりの教育などと言って子どもの成長・発達を信じない国の方針にも惑わされなかった。
 「遊びをせんとや生まれけむ」と遊びながら成長する子どもの姿に感動した古代歌謡集「梁塵秘抄」の心を忘れなかった。遊びが滅び、遊ぶ子ども集団が滅んでいく時代を、「その」は遊びの復活に心を砕いた。それがこんにちの「その」を育てた。

 ここまで「その」が成長できた原動力は三つある(と私は思っている)。

 第一は、最初の「設立趣意書」に「小学校の予備校的な教育はしない」と明記し、幼児期に必要な体験を重視した教育・保育の理念を守り通してきたことにある。
 第二は、絶えざる研修と民主的な話し合いによって保育計画を豊かにし、一人ひとりの子どもの思いに寄り添って実践できる保育者集団を育ててきたことである。
 そして第三は、保育の取り組みを暖かく見守り、職員と共同して「その」の保育と経営を支える父母たる生協組合員の存在が力になったことである。
 ローマは一日にして成らず…「その」の歩んだ道も平坦ではなかった。いま、その来し方を振り返るのも意味のあることではなかろうか。

■はじめの一歩

 新しい保育施設を自分たちの手で立ち上げようと、親たちが集まったのは昭和三九年(一九六四年)の七月のことだった。九月二三日、霞ヶ丘団地集会所で「保育生協」の設立総会が開かれ、一一月末には稲の切り株が残る田んぼで起工式が行われた。やがて広々とした田園地帯に六角形の真白い園舎がが完成したとき、出資した親たちは「奇跡だ」と喜んだ。一年足らずの準備期間にどんなドラマがあったか、どんな困難が私たちを見舞ったか、それは後日に譲る。ここでは開園した後、保育内容を確立する上での困難と、それを乗り越えてきた私たちのもうひとつの奇跡について語りたい。

 昭和四〇年(一九六五年)四月一〇日、年中組二クラス七二名、年少組二クラス五〇名で「その」は開園した。先生が四人、助手が一人だった。
 小人数でもかき集めの先生が一つの園を運営するというのは大変なことだ。朝の集まりをやるにも「私の園ではこうだった」と誰かが言えば、別の人は「私たちは…」と別の経験を言う。一事が万事だから、年配の主任の先生がこうと決めて指図する形になる。保育計画にしても年中組と年少組の二枚を主任が自宅で書いてきて「こんなものでどうでしょう」と言って出されれば意見を言うのも難しい。
 放課後、お茶を飲んで、今日の子どもたちの様子を談笑する。若い先生はその中で得るものが大きい。でも、主任にとってはムダなおしゃべりだ。「さあ、お茶がすんだら装飾の続きをやりましょう」。真新しいガラス窓にセロファン紙で飾る。主任の手は魔法のように動いて美しい花や草が輝く。先生たちは黙々と働く助手に過ぎない。
 あるとき若い先生が言った。「わたし、飾るんなら子どもと一緒にやってみたいんですけど…」。主任はそれには答えず、「私が先生になったばかりは誰も教えてくれませんでしたよ。夕方、みんな帰った後、くずかごの中の失敗作を広げて、作り方を覚えたもんです」。
 あるときは保育計画について話し合っていた。一番若い細田先生が「私は、幼稚園教育要領が六領域に分けているのは納得がいかなくて…」と言いかけると、主任はイスをバタンと倒して立ち上がり、鞄を持ってさっさと帰ってしまった。細田先生は涙ぐみ、他の先生はため息をついて帰り仕度をする。…翌日、主任に訳を聞いてみると「ああいう屁理屈が出たら、誰か席を立たなければ終わりませんよ」という。

■麦笛荘の若者たち

 開園二年目、園舎を増築して九クラス三百人を超えた。若い先生たちが増えた。後に主任になった斉藤先生、山田(永井)先生、助手の美津子先生も夜学を終えてenogu先生になった。若い先生たちは、大原の住宅の二階を借りて「麦笛荘」と名づけ、共同生活を始めた。「その」の薄給では一人では生活できなかった。
 当番で炊事をする。貧しくても食事は楽しい。今日あったこと、感じたこと、何でも話し合えた。二年目の細田先生と美津子先生が若者たちのリーダーだった。職員会議では話せないことも、ここでは話し合えた。いや、むしろこれが実質的な職員会議でさえあった。
 この頃のことを後年、美津子先生は「そのだより」に次のように書いている。

 「カリキュラムもない。保育方針もない。去年はとか、前はこうしたとかいうものが何もない。あちこちから集まった先生たちで、ともかく保育を始めなければならなかった。保母一人ひとりがどんな保育をしてもよいという自由があり、その自由は、不安な見通しのない自由であった。…
 しばらくすると、きちんと行儀のよい保育の好きな先生と、泥んこになって友だちと遊ばせることを主張する先生の対立が始まった。私はどちらともわからないほど無知であった。一生懸命勉強して、子どもにぶつかっていった。子どもたちは私の良き先生であった。夏休みには1ヵ月中、あちこちの研究会に参加した。夜遅くまで仲間と話し合った。
 目の前のベールが一枚一枚はがれていくようであった。うれしくて夢中だった。子どもがだんだん見えてくる。一人ひとり顔もちがう。心もちがう。
そうしているうちに自分の考えがはっきりしてきた。子どもたちが泥んこになって遊ぶということが、どんなに大切かということがわかってきた。」……

■親たちの混迷の中から

 先生たちの中に保育のありようをめぐって対立がくすぶっているとき、親たちも混迷を深めていた。親たちは「いい保育」を求めて「その」を作ったのであるが、「いい保育」ということのイメージは人それぞれであった。それを父母と先生の交流、協力の中で大きな合意に高めていくのが、本来「その」の果たすべき役割なのだろう。しかし、先生たちに共通の理念や目標がなく、気持の上でもバラバラな状態では、それは父母に投影され、父母もまた団結を失いかけていた。
 人口急増で幼稚園が不足し、定員を無視した詰め込みとお利口さんをしつける保育が普通になっていた街の幼稚園の在り方に反発して「その」が生まれたはずだった。
 しかし、子どもたちを自由に遊ばせ、友だちとぶつかり合って保育しようとする若い先生たちが増えると、親たちの中から「幼稚園的な教育の良さが軽視されている」と批判の声が上がった。経営の苦しさ、赤字の累積もあって、創業間もない「その」は混迷と対立が深まるばかりだった。
 先生はバラバラ、親は勝手な文句ばっかりという状況から、どうやって抜け出せばいいのか。私は、創業者でもある親たちの意見はしばらく棚上げして、まずは創立趣意書の理念を保育に活かせる先生たちのまとまりを作ることに力を注ぐことにした。
 最初の卒園生を送り出した三年目、それまで保育の中心にいた主任が退職した後、保育計画の自主編成に乗り出したのがそれである。しかし、「若い先生を重んじ、父母を軽んじている」と反発して、たもとを分かった役員がいる。一方、暖かく若い職員を見守ってくれた理事もいた。もう故人となった笠木忠夫さん、磯山昌枝さん、今も元気な吉川道子さんたちの顔が目に浮かぶ。

■保育計画のはじめの一歩

 カリキュラムづくりの最初は、今年度の保育目標を「どんな子どもに育てるのか」という角度から、みんなで出し合った。
 「偏食をなくする、というのを入れて。せっかく給食をしているのに、好き嫌いが多すぎると思わない? わがままを直すためにも入れて」と、一人が神経質に言った。
 目標を「こころの問題」と「からだの問題」に分けて、みんなが思いつくことを記録していく。思いつきだから、理想の子ども像というにはお粗末だった。「よくできたじゃない?」と満足そうな先生もいる。大事なことはこの文章の完璧さではなく、自分たちで考え、自分たちでまとめた点にある。その意味でこの「目標」は生きていた。どんなに内容が不十分であっても、一人ひとりの実践の目安になるのはもちろん、みんなで話し合うときの共通の物差しとして役立つだろう。そしてそれを作ったことで、先生たちは主体的に保育する集団へ、新しい一歩をしるしたのだった。
 それから丸三年、「その」は最初のカリキュラム作りに心血を注ぐ。

保育計画か教材研究か

soranbusi-2 創業三年目、私たちは本格的に保育計画づくりに着手した。今日の保育が明日にどうつながるのか、見通しをもった仕事がしたかった。
 東京から講師を招いて保育計画の研究会を開いた。四月の保育案を大きな模造紙に書いて壁に貼った。「ほほう。ここの園は入園式をやるんですか」と、東京の先生は妙なことを言い出した。「なんのためにやるのか、説明して下さい」。
 「入園式ですか…」みんな戸惑っていると、「では、理事長に聞こう」。
 「そりゃ入園式くらい、やってくれないと困りますよ。どこだってやってることだから」
 「世間がやるからやるわけ? そんな教育ってあるかなあ。目的がはっきりしないなら、入園式なんてやめた方がいい。僕たちが目的と言うのは、子どもをどう変えるか、どう高めるかということだ。儀式としてやるにしても、そこに子どもがいるからには教育活動だろう。どんなねらいをもって入園式をやるのか、それひとつで園のレベルがわかるね」
 むろん「その」も無目的に入園式をやったのではない。ただそれを言葉で簡潔に表現できないのは、私たちが論議して目的や目標を確認しあっておらず、お互いにあいまいな認識でいたからである。そして、このあいまいさが私たちのレベルでもあった。
 月一回、東京の先生との研究会を続けて、これから夏休みというときにみんなで話し合った。意外なことに若い先生たちから、保育計画もいいけれど、いますぐ役に立つ教材研究などがしたい、という意見が続出した。系統的な保育とか、見通しをもった保育とか言う前に、いま何をすればいいか知りたいと、その声は切実なものがあった。保育計画づくりに熱中していただけに胸にこたえた。
 しかし、保育計画づくりをやめるわけにはいかなかった。目前のひとつひとつを明らかにしたとしても、やがて必ず何のために、何をめざして保育するのかという大きな悩みに直面するだろう。若い先生たちは気づいていないが、何のために、何をめざして保育するのかという大きな理念で一致しないかぎり、具体的な実践の話し合いも深まってはいかない。

■四万温泉の合宿で得たもの

 夏休みが来て、幹部職員と保育計画の骨格をつくろうと四万温泉に合宿した。「保育の友」や「月刊カリキュラム」といったいくつかの保育雑誌を分析することから始めた。4月号から順番に「自然の12カ月」「音楽リズムの12カ月」といった一覧表をつくった。それぞれの領域で4月から5月へ、5月から6月へと、どんな積み重ねが用意されているのだろうか。
 「へんだわね。これ…」
 一覧表には何の系統性も認められなかった。春は花、夏は水と季節によりかかって、子どもの発達ということは二の次になっていた。内容がてんこ盛りでとてもやりきれないのも目立った。文は具体性にない美辞麗句が多い。たとえば月刊カリキュラム誌の五歳児一月の「絵画製作」を見ると、「お正月の経験などから、とらわれのない意欲的な表現をさせる」とある。「とらわれのない表現」というのは、見たまま感じたままに伸びやかに表現するといった意味だろうか。だとすれば、それはいつも大事にしなければならないことで、正月の絵に限ったことではない。年長組一月の発達に見合った課題と言うわけではないのだ。
 言葉は認識である。言葉は思想だ。ひとを教育しようというとき、意味もない修飾はどういうものだろうか。合宿の最初の収穫は既成の保育案に頼るのでなく、自分たちの保育は自分たちで考えるしかないということだった。

■保育の流れを台本にする

 参考に持参した中に座間市のある幼稚園の保育計画があった。芸術教育を主軸にするというこの園は、保育内容を生活指導、演劇、美術、音楽の四領域を設定していた。
 私たちが注目したのは絵本「ひとまねこざる」を台本に、この絵本に出てくる言葉を単元に、年間の保育をひとつのドラマとして捉えようという発想である。たとえば三歳児の四月は「だいじょうぶ、でていく、そと、おむかえにきます」など、子どもの生活に関係深いものや教育目標に関係づけたい単語や短文を選んで各週のテーマとして配列している。
 面白いが、絵本の限られた言葉に縛られて、こじつけの、おとなの言葉あそびの感もあるが、保育計画をひとつの「台本」として捉える着想に心を惹かれた。合宿の後半は、保育計画の台本づくりに集中した。できれば三歳児から五歳児までの三年間をひとつの大河ドラマとして描きたかった。

 まず年少組一学期のねらい―「新しい集団生活に慣れさせる」と誰かが言って、「年少の新学期は集団生活と言える?」
 「うん。集団と言うと、もっと組織的な人間関係を連想するものね」
 「それに慣れさせる…保育者から言えば慣れさせるでも、子どもたちにすれば慣れるだし…どっちから見るの?」
 「慣れるのか、なじむのか。鈍感に慣れっこになるイメージではなくて、主体的に新しい環境を受け入れるという意味では、なじむの方がぴったりする」
 議論を重ねて、三年間の期のねらいが定まった。

年少組(三歳児)
一学期 新しい生活になじむ
二学期 みんなと一緒にできるようにする
三学期 じぶんでできる

 年中組(四歳児)
一学期 新しい生活にふれ、集団生活に参加する
二学期 活発な表現活動を通して、友だち関係を発展させる
三学期 一人ひとりの力を確かめる

年長組(五歳児)
一学期 新しい集団に積極的に参加する
二学期 考えて行動する力をつけ、仲間意識を育てる
三学期 集団生活を確立し、学校への準備をすすめる
 これをまとめただけで、これからの保育に大きな展望がひらけてくるような気がした。曲がりなりにも自分たちでまとめた喜びがあった。(今の保育案と比べてみると、当時は目標を高くしすぎたきらいがある。思い込みが強すぎたかもしれない。実践を重ねて手直しされてきたことは言うまでもない)。
 合宿の最後は、旅館のチェックアウトに追われながら、駆け足で「月のねらい」をまとめた。不十分なものではあったが大河ドラマの筋書きはできた。

■系統性のタテ糸と総合性のヨコ糸

 夏休みが明けて合宿の報告をもとに、「期と月のねらい」を基本にすえた毎月の保育案づくりが課題となった。botanyuki
 幼児は生活体験を通じてまわりの世界を自分の中にとりこみ、それを丸ごと栄養にして成長する。生活体験の主な形態は「あそび」であり、幼児は遊びながら知識や技量を身につけ、人格を形成していく。幼児の認識は未分化だから、それを反映して渾然一体のあそびが主な学習方法になるのである。やがて論理的な思考、科学的な見方も芽生えて


きて、小学校のような教科学習が可能なレベルに到達するだろう。幼児の発達にかなった課題を準備し、系統的に展開するのをタテ糸とすれば、総合的なあそびをヨコ糸に、あやなしてひとつの世界を形づくるような保育案を具体化したかった。
 文部科学省は幼稚園教育要領に小学校の教科に準じた六つの領域なるものを設定したが、その六領域の相関関係はあいまいなまま、各幼稚園において総合的な保育計画を立案するよう求めている。こうした幼稚園教育要領の構造的な欠陥が、これに準拠した保育雑誌のカリキュラムの実践不能なてんこ盛りの保育案や美辞麗句のうすら寒い保育内容の根源になっているのではないか。
 保育計画づくりの中で、われわれは知育、体育、美育、徳育の四領域を設定するとすれば、それを平面に並べるのではなく、その四領域をつなぐ幹として「集団づくり」を置きたかった。集団づくり、生活指導を根幹に、四領域の枝が茂るイメージで、保育の全体像を捉えたい。
 しかも、集団づくりの動脈となるのは言語教育、話しことばの指導ではないだろうか。
 こうした考えで、「月のねらい」を果たしていく上で、「集団づくりのねらい」と「そのてだて」を相対的に重視して、月のねらいの次の位置に掲げた。
 それから丸二年。疲れ果て夜更けて何度居眠りしながら作業を進めたことだろう。「子どものその三カ年保育計画」は、創立五周年を迎えた一九六九年九月に完成した。

       ■保育計画の拘束力

 一九六九年九月、創立五周年に間に合わせて完成した三カ年保育計画を私たちは立派な印刷物にまとめた。丸三年苦闘の成果だった。そのB4版三六ページの印刷物がいま一冊も残っていないのは何故だろう。
 出来上がったとき、私たちはこの保育計画でもう迷うこともなく仕事ができると信じていた。新学期に立派に印刷された保育計画書を一冊ずつ家庭に配れば、もう毎月疲れたからだにムチ打って保育計画づくりのために話し合い、文章化する苦労もなくなるはずだった。
 しかし、保育計画通りには実践できなかった。子どもはクラスによってもその年によっても違うから、いつも話し合って計画を手直ししなければならなかった。計画の完成後に入職した若い先生が勝手な実践をしているので、「カリキュラムはやったの?」と先輩の先生が聞くと、「わたしはいいんです」という返事。何がいいの?
 年少組の一学期の目標が「新しい生活になじむ」とある。これはたった一行だが、この目標を定めるのにどれほどの議論をしただろう。行間に隠された保育者の思いは重いほどだ。だが、新しく就職した先生にとっては、ただの一行の文言に過ぎない。
 こうして立派に製本された三カ年保育計画書は一年で寿命が終わった。私たちはまた毎月疲れと闘いながら保育計画を練り、ガリ版刷りでそれを父母に伝えながら保育をする生活に戻った。

   ■私たちが手にした収穫
 


 しかし、その過程で私たちが手にしたものは大きい。
 まず第一は、三年間の保育の流れをひとつの大河ドラマとして捉えたことである。実際の保育は日常の小さな実践の積み重ねである。それだけに今日の活動の成否に心をとられ、大局を見失いがちだ。木を見て森を見ない類である。
 そこで、個々の活動からいったん目を離して、三年間の大河ドラマに心をはせる。年少から年中へ、さらに年長へと、子どもたちと仲間は飛躍的に成長・発達する。その巨視的な視点から今日の具体的な実践を考えたい。
 文部省が定めた当時の幼稚園教育要領は、小学校の教科に準じて六つの領域を定め、「幼児に指導することが望ましいねらい」133点を羅列していた。それをどのように保育計画にまとめるかは各園の状況に合わせて工夫することを求めていた。つまり幼稚園教育要領は、細部から出発して、全体像を組み立てることを求めていた。
 これに対し私たちは、子どもの発達を踏まえた大河ドラマという、保育の全体像を描き、それを達成する細部の実践を考えた。これによって私たちは幼稚園教育要領の限界を超えることができたと思う。
 第二の収穫は、保育計画の構造についてである。
 私たちは、幼稚園教育要領が六領域に分け、それをそれぞれ三~四項目に分け、さらに一三三項の課題に分割していることに疑問を抱いた。幼児教育は豆腐のように平坦に切り刻んでいいものか。幼稚園教育要領には構造的な弱点がある。
 未分化な幼児の世界をあえて領域に分けて考えるなら、知育、体育、美育、徳育の四つに大きく分け、これらの領域をつなぐ木の幹として生活指導をおきたい。そして木の幹の動脈は話し言葉の教育でなければならない。
■その後のそのの課題 

   

 大河ドラマという形で就学までの生活を大きな流れに組み立てたのは独創的で、私たちの保育に展望をもたらしたが、その大河ドラマの物語を構成する実践、ドラマの細部は未完成のままだったのは否めない。
 保育計画は一つの仮説だ。実践して検証しなければならない。活動の途中でも子どもたちの様子を見て計画を変更する柔軟性が必要でもある。
 そのの毎月の保育計画づくり、見直し作業は、実践課題、保育のデテールを充実することで、全体像をより豊かにする過程にある。いつかその蓄積に基づいて、大河ドラマそのものを見直す時が来るだろう。それを提起し、やり遂げるのは誰だろう。 文部科学省が二月に新しい幼稚園教育要領の草案を発表した。期待していたが、正直がっかりした。いずれこの問題についても論議しなければならないだろう。
 
(理事長 能 登 眞 作)

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