お父さんの遊び心(改訂版)

2009 年 7 月 12 日
理事長 能 登 眞 作
子どもと向かい合って遊ぼう
お父さんの出番は、思春期になってからでは遅すぎる。
「小さいうちはお前にまかす。いずれ高校受験の頃になれば、おれが面倒見るようだからな」なんて思っていても、今の時代は『親の権威』は地に落ちてしまったから、親しみのない父親の意見を素直に聞く子は、まずいない。子どもに反発されて「何を生意気な。誰のおかげで大きくなれたんだ」などとわめいてみても、後のまつりである。
幼いときから遊んでもらって、「お父さん大好き」という子どもは、いざという時、お父さんを思い起こすだろう。親の方から見ても、ふだん遊んで子どもの性格や希望をつかんでいれば、いつか壁に突き当たったときのシグナルを見落とすことはあるまい。
わたしの親は、明治の人だから、子どもと遊んだりはしなかった。親は遊んでくれなくても、近所にはガキ大将がいて、みんなを率いて遊び歩いたものだ。面白いことも、危ないことも、悪さの手加減も、ガキ大将とともに学んで育ったと思う。今の子どもの生活は、物は豊かだが、こうした人間的な体験という意味ではあまりにも貧しすぎる。お父さんの出番のゆえんは、このへんにある。
そうは言っても、小さい子どもと何をどうして遊べばいいか、遊び方を知らない若いお父さんも多いようだ。手っ取り早いのがドライブ、遊園地、ファミリーレストランだ。だが、これはどれひとつとっても遊びには入らない。むろん子どもは、メカもスピードも大好きだから大喜びする。でも、これによって子どもは何を獲得するというのだろう。子どもと遊ぶということは、子どもを中心に家庭の文化を作るということなのだ。何かというとファミリーレストランという行動パターンは、そのうち「おふくろの味はマクドナルド」などとなりかねない。
子どもと遊ぶのに金はいらない。すもうを取るもよし、紙ひこうきを折って公園に飛ばしに行くもよし。子どもとは向かい合って遊ぶのが大切だ。ボール投げ、すもう、こま、めんこ、カルタ、トランプ、オセロ、ちょっと大きくなれば将棋。遊び心があれば遊びはどこにでもある。
アスレチック作りに参加したお父さんたちは「『その』の子どものため」と考えて頑張ってくださったのだが、作ること自体が面白いと思う遊び心がなければ、あれだけの仕事はできなかったろうと思う。
子どもの気持ちを大切に
ゲーム大好きの若いお父さんが、子どもにもこの面白さを味合わせたいと、仲間に引き込むケースによく出会う。子どもも夢中になる。「な、面白いだろ」とお父さんは得意顔。これは一人前の男のすることだろうか。
子どもと遊ぶということは、子どもの世界に下りて、子どもの興味や意欲に寄り添い、子どもが新しい世界を獲得するのを助けることだ。自分の世界に子どもを引き込むことではない。幼児期は、直接体験を通じて、からだと感覚で世界を認識していく時代である。電子機器による疑似体験は、人間関係を取り結ぶ力を育てず、思春期の問題行動につながることが懸念されている。
電子メディアの急速な発達と普及は、新時代を切り開きつつある。それは人類の英知と言うべきだろう。子どもたちは、この新しい文化をいつか自分のものにしなければならない。それを教育問題として捉えれば、与える時期と方法は適切に選ばれなければならないだろう。
電子メディアは、道具としてのすぐれた側面からだけでなく、子どもにとっての環境問題としても真剣に考えてほしいと切望する。そして、昔ながらの人と人とがぶつかり合う遊びを、お父さん、大切にしよう。

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子どもと向かい合って遊ぼう

理事長 能 登 眞 作

お父さんの出番は、思春期になってからでは遅すぎる。

「小さいうちはお前にまかす。いずれ高校受験の頃になれば、おれが面倒見るようだからな」なんて思っていても、今の時代は『親の権威』は地に落ちてしまったから、親しみのない父親の意見を素直に聞く子は、まずいない。子どもに反発されて「何を生意気な。誰のおかげで大きくなれたんだ」などとわめいてみても、後のまつりである。

幼いときから遊んでもらって、「お父さん大好き」という子どもは、いざという時、お父さんを思い起こすだろう。親の方から見ても、ふだん遊んで子どもの性格や希望をつかんでいれば、いつか壁に突き当たったときのシグナルを見落とすことはあるまい。

わたしの親は、明治の人だから、子どもと遊んだりはしなかった。親は遊んでくれなくても、近所にはガキ大将がいて、みんなを率いて遊び歩いたものだ。面白いことも、危ないことも、悪さの手加減も、ガキ大将とともに学んで育ったと思う。今の子どもの生活は、物は豊かだが、こうした人間的な体験という意味ではあまりにも貧しすぎる。お父さんの出番のゆえんは、このへんにある。

そうは言っても、小さい子どもと何をどうして遊べばいいか、遊び方を知らない若いお父さんも多いようだ。手っ取り早いのがドライブ、遊園地、ファミリーレストランだ。だが、これはどれひとつとっても遊びには入らない。むろん子どもは、メカもスピードも大好きだから大喜びする。でも、これによって子どもは何を獲得するというのだろう。子どもと遊ぶということは、子どもを中心に家庭の文化を作るということなのだ。何かというとファミリーレストランという行動パターンは、そのうち「おふくろの味はマクドナルド」などとなりかねない。

子どもと遊ぶのに金はいらない。すもうを取るもよし、紙ひこうきを折って公園に飛ばしに行くもよし。子どもとは向かい合って遊ぶのが大切だ。ボール投げ、すもう、こま、めんこ、カルタ、トランプ、オセロ、ちょっと大きくなれば将棋。遊び心があれば遊びはどこにでもある。

アスレチック作りに参加したお父さんたちは「『その』の子どものため」と考えて頑張ってくださったのだが、作ること自体が面白いと思う遊び心がなければ、あれだけの仕事はできなかったろうと思う。

子どもの気持ちを大切に

ゲーム大好きの若いお父さんが、子どもにもこの面白さを味合わせたいと、仲間に引き込むケースによく出会う。子どもも夢中になる。「な、面白いだろ」とお父さんは得意顔。これは一人前の男のすることだろうか。

子どもと遊ぶということは、子どもの世界に下りて、子どもの興味や意欲に寄り添い、子どもが新しい世界を獲得するのを助けることだ。自分の世界に子どもを引き込むことではない。幼児期は、直接体験を通じて、からだと感覚で世界を認識していく時代である。電子機器による疑似体験は、人間関係を取り結ぶ力を育てず、思春期の問題行動につながることが懸念されている。

電子メディアの急速な発達と普及は、新時代を切り開きつつある。それは人類の英知と言うべきだろう。子どもたちは、この新しい文化をいつか自分のものにしなければならない。それを教育問題として捉えれば、与える時期と方法は適切に選ばれなければならないだろう。

電子メディアは、道具としてのすぐれた側面からだけでなく、子どもにとっての環境問題としても真剣に考えてほしいと切望する。そして、昔ながらの人と人とがぶつかり合う遊びを、お父さん、大切にしよう。

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