斎藤寿子先生を送る

2009 年 7 月 13 日

 理事長 能登眞作
 
 37年勤続の斎藤寿子先生が3月をもって退職された。数年前から体力の限界ということで引退を希望されていたが、ここまでムリをしてもらった。
 一昨年、生協運動の功労者として土屋知事から表彰を受けるなど、その功績はひろく認められていた。「その」とすれば保育の大黒柱を失う思いで、心細い限りである。
 斎藤先生がそのに来られたのは開園の翌年に遡る。
 
saito 4クラス(年少2、年中2)でスタートしたが、2年目は年中組が4クラスに増え、8クラスに倍増するときに、斎藤(旧姓吉田)先生や永井(旧姓山田)先生らを迎えた。永年勤続して定年退職された増渕先生、仲本先生は、その翌年、開園3年目の入職だから、斎藤先生は最古参の職員だった。

 
 「その」は”いい保育”を目指して出発したが、いい保育というものの定番があるわけではない。いい保育と言っても、一人ひとり考えが違った。創業期は、先生と父母とをひとつに結ぶ理念や目標がハッキリせず、みんなバラバラだった。

 
 きょうの保育が明日にどうつながっていくのか、どんな子どもをめざして保育するのか、共通の見通しと目標を持ちたくて、保育計画の自主編成に着手したのは開園3年目のことだった。そのころになると、行儀よくお利口さんな子に育てようとする先生と、自然の中で泥んこにして遊ばせようとする先生に分かれていった。斎藤先生は後者の中心の一人であった。

 
 当時、「その」の安月給では食べられなくて、若い先生たちは市内大原に一室を借りて「麦笛荘」と名づけ、共同生活を送っていた。仕事から帰るとみんなで毎日議論をした。休みの日にはあちこちの勉強会に出かけていく。
 学び、実践し、討論を重ねるうちに、一人ひとりの子どもの気持が見えてきた。自由なあそび、生活の中でこそ、子どもの力がぐんぐんと伸びていくのが分かってきた。

 
 保育計画の大筋がまとまるまでに3年かかった。増渕先生や斎藤先生はその中心になった。誕生会の4月「花のお祝い」、7月「星のお祝い」などのネーミングは、当時お茶目だった斎藤先生の発案になった月が多い。

 
 今の保育は、それから30数年の積み重ねがあって、創業期のままではないが、模倣でない創造的な保育計画の原型を作った創業期の苦労は、語り継ぐべき値打ちをもっている。斎藤先生が去っても、『その』がそののままであるために、斉藤先生らの功績をしっかりと記録したい。

 そのは既存の幼稚園の保育内容と運営内容を批判して誕生した。親の立場で、あるべき保育を探求した。「その」は最初から歓迎されずに生まれてきたのかも知れない。ありとあらゆる迫害、妨害の中で経営を維持しなければならなかった。その一番端的な例が、市への運動で実現した無認可保育施設への補助金に対して、私立幼稚園側から市議会に出された「無認可への補助金をよして、幼稚園の保護者を援助してほしい」という請願である。こうした理不尽な世論をもとに、私たちへの補助金は何の予告も経過措置もなく一方的に全額カットされてしまった。

 
 「その」は存在すること自体が戦いであり、勝利であった。斎藤先生はいつもその厳しい戦いの先頭に立っていた。38年の「その」の苦難の戦いをすべて語ることはできないが、「その」に関わったすべての人の喜怒哀楽を、感謝の思いをこめて、斎藤寿子先生に贈りたい。(2003年4月6日。第39回入園のお祝いの前日に)

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